[自創空間]コングレ・武内 紀子 氏

インタビューARCHIVE
本記事は2018年8月31日発行の季刊誌『EventBiz』vol.12で掲載した内容をWEB版記事として転載および再編集したものです。掲載されている内容や出演者の所属企業名、肩書等は取材当時のものです。

大好きな新聞を読んで、広い世界に憧れた少女時代

小学生のころまでは父が転勤族だったこともあり、福岡、愛知、大分、大阪と日本各地を転々としていました。運動が好きで中高でバスケ部に入りましたが、何より面白かったのは新聞を読むことでした。特に印象に残っているのは、当時好きだった記者が書いた「日本では手づかみが不潔と言われるが、インドでは不浄の左手を使って食事をするほうがよほど汚いと言われる」といった趣旨の記事です。日本とは異なる文化・背景を持つ国の、そこに根付いた理屈には説得力があり、もっと広い世界を知りたいという思いを触発されました。大学で文化人類学を専攻したのも、その思いがあったからです。

武内 紀子
コングレ・代表取締役社長

学生時代、初めてコンベンションの仕事にも携わりました。国内学会のアルバイトだったのですが、さまざまな異なる立場の人間が大勢集まっていて、その空間をプロデュースすることに興味を覚えました。就職活動にあたっては、最終的に事務とコンベンション企画運営の2職が選択肢として残ったのですが「忙しくてもより開かれたフィールドで活躍したい」、「世界や社会と深くつながりたい」という考えの下、今の道を選択しました。

大阪でコンベンション企画運営会社に入社後は営業総務を担当し、「国際花と緑の博覧会」など大規模イベントにも関わらせていただきました。仕事のきっかけづくりや人間関係の築き方、交渉術など学ぶことはいくらでもあり、どんなことにも挑戦する“度胸”もその時に培ったものです。そのころの経験や出会いは、私にとって掛け替えのない宝物となっています。

創業後、ひとつずつ積み重ねてきた実績と信頼1990年になると、大阪の地でコングレの創業に携わりました。ゼロからのスタートで資金繰りもやっとといった感じでしたが、私たちを個人として信頼して「君だからお願いする」と言ってくださるお客様や協力会社の信頼に応えたい一心で、一歩一歩前に進み続けました。

91年には「第23回日本医学会総会(京都)」と「第32回米州開発銀行年次総会(名古屋)」の運営を担当するとともに東京に事務所を構え、それ以降少しずつ国との仕事も増えはじめ、94年には「南極条約協議国会議(京都)」「第10回国際エイズ会議(横浜)」など、社会的意義が大きくインパクトのある仕事も任せていただけるようになりました。特にエイズ会議の運営は本格的なメディアセンターを作って、当時らしく国際電話のかかる公衆電話を多数設置するなど、社会の動きを肌で感じることができる貴重な経験でした。

TVや新聞で見かけるような要人や産業界を代表するリーダーを間近で見ることができ、自らの仕事が社会を動かしているという実感を得られること。それは今も昔も、コンベンションを担当するPCO(プロフェッショナルコングレスオーガナイザー)の特権であり醍醐味と言えます。

常に変わり続け、成長することで地域に貢献

2001年の取締役営業企画部長、2005年の常務取締役、2011年の代表取締役専務を経て、2013年6月には社長に就任しました。企業を成長させ、より社会に好影響を与えるためには、常に変化をし続けることが大事です。コングレのコアビジネスのひとつである医学会を見ても、コミュニケーションツールとしてさまざまな形でITが採り入れられています。一方で、社会全体ではAI(人工知能)の導入がハイペースで進んでおり、今後、管理業務においてなくてはならないものになっていくと予想されます。

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