[自創空間]ビジネスガイド社・芳賀 信享 氏

インタビューARCHIVE
本記事は2020年11月30日発行の季刊誌『EventBiz』vol.21で掲載した内容をWEB版記事として転載および再編集したものです。掲載されている内容や出演者の所属企業名、肩書等は取材当時のものです。

喧嘩や運動に明け暮れた血気盛んな少年時代

芳賀 信享 氏(ビジネスガイド社 代表取締役社長)

私が生まれたのは1960年、父・芳賀忠がビジネスガイド社を創立する11年前のことです。幼少時代はとにかく血気盛んで、友達としょっちゅう喧嘩をしては、日が暮れるまで公園で遊んでいる、ガキ大将という言葉がぴったりと当てはまるような子供でした。大人になった今も趣味としてテニスを嗜んでいますが、子供の頃はローラースケートやアイススケート、スキーといった滑るスポーツと自転車が特にお気に入りでした。

中学に上がると同時に、喧嘩は卒業しました。その頃になると空手など本格的な格闘技を始める子も多く、喧嘩が遊びでは済まなくなってきたからです。私自身も剣道を始め、高校まで続けました。大学時代はテニスをするかたわらアルバイトに精を出し、警備会社や推奨販売員など、さまざまな仕事を経験することで自身を取り巻く世界が一気に広がりました。言い換えればそれは、労働の大変さと喜びを知るとともに、物を売るということがどんなことか、接客がいかに重要であるかなど、社会人としての素養を急激に伸ばした時期でもあります。

この頃から展示会にも本格的に関わりました。小さい頃からずっと家業の手伝いはしていましたが、当時、池袋サンシャインシティで開催されていたギフト・ショーの受付業務などを始めたのは大学時代の後半からです。

証券会社の営業としてビジネスの世界を学ぶ

大学卒業後は証券会社に就職しました。家業を継ぐためにビジネスガイド社に入るという道もありましたが、そのためにもまずは外の広い世界を知った方がいいと考えたのです。ビジネスガイド社と同じ出版社も受けましたがなかなか思うような会社には巡り合えず、それならばいっそ金融や経済を学ぼうと証券会社という未知の世界に飛び込みました。当初は広報を志望していたのですが、自分でも驚いたことに営業の仕事が面白く、肌に合っていたと気づかされました。

証券マン時代には情報収集のため、頻繁に展示会へと足を運びました。出展社のパンフレットをかき集めては、少しでも自身の血肉とすべく、目を皿のようにしてにらめっこし続けたのです。続けていくうちに段々とその会社のことが分かってきます。そして、それを基にお客さまに勧める株式の銘柄の調査資料を作ります。日本のモノづくりの先端技術を実感したのもこの頃で、後にギフト・ショーに出展される新商品にハイテク技術や伝統産業の技術が活かされていることを学びました。

仕事に対する姿勢やビジネスマナーを見直すことになったのも証券マン時代です。新人の頃にトイレ掃除など雑務ばかりをやらされ「なぜ自分がこんなことを」と思うこともありましたが、真面目に手を抜かずこなすうちに少しずつチームワークが育まれ、人と人との信頼関係とは小さな積み重ねによって成り立っているのだと気づかされました。顧客との関係性も同じで、この人は信頼できる人なのか、本当に自分のためになる提案をしてくれるのかなど、日ごろの立ち振る舞いの一挙手一投足から見られています。契約を取るための浅はかな提案は、長い目で見れば実を結ばないのです。

父を支えるために家業へギフト・ショーを国際化

証券会社で順調に実績を重ねていた私がビジネスガイド社に戻ったのは、当時ビジネスガイド社の専務であった母・芳賀久枝の病がきっかけです。元々ビジネスガイド社は両親の自転車操業で、当時ようやく経営が軌道に乗り始めていました。母が倒れたことで父の負担が一気に重くなることは火を見るよりも明らかで、父が少しでも楽になるならばと1985年に入社しました。配属されたのは編集部で、『月刊ぎふと』と『月刊パーソナルギフト』の2冊を担当しました。当時は人手不足で月の担当ページが60ページもある上、金融業界で生きてきた私にはギフトの知識が足りておらず、録音したインタビューを文字に起こしながらページを埋めるだけで瞬く間に時間が過ぎていったものです。