[自創空間]丹青社・高橋 貴志 氏

インタビューARCHIVE
本記事は2019年11月30日発行の季刊誌『EventBiz』vol.17で掲載した内容をWEB版記事として転載および再編集したものです。掲載されている内容や出演者の所属企業名、肩書等は取材当時のものです。

工場町で育った青春時代 勉学やアルバイトに励む

高橋 貴志 氏(丹青社・代表取締役社長)

1955年生まれの港区育ちで、実家は木工家具の骨組みを作る、いわゆる町工場でした。当時、新橋から白金の付近はそのような家具工場が軒を連ねていて、その風景はまさに『ALWAYS 三丁目の夕日』のようだったと記憶しています。東京タワーができたのが1958年の12月なので、私とは幼馴染といったところでしょうか。そのような環境下で育ったものですから、私も物心ついたときにはモノづくりの道に進むことを自然な考えとして受け入れていました。

高校は都立工芸高等学校に進学しました。思い返せば実に自由を謳歌できた青春時代で、勉学に励みながらも、アルバイトをしたり、いろいろな学びを得ました。友人ともよく遊び、時には旅行にでかけたりしては、他愛のない会話に花を咲かせたものです。その頃の友人とは今でも忘年会などで会いますが、話しているとまるで少年時代に戻ったかのような錯覚に陥ります。人の絆というものは、時が流れても色あせないこともあるのです。

初めての現場は大シベリア博 そして大型スーパーの時代へ

丹青社には1974年に入社しました。きっかけは工芸高校に募集があり、担任教師の勧めもあったからなのですが、まさか自分がその社長になるとは当時は想像だにしませんでした。丹青社は今日では1,200人以上の従業員を数える歴史のある企業となりましたが、当時はまだ設立から20年足らずで、社員も300人ほどでした。同期が36、7人なのでほぼ1割を占めていたことになります。

入社直後には後楽園で1973年12月から1974年5月にかけて開催されていた「大シベリア博」の現場に入りました。とは言え、会期も終盤だったので、関わったのは保守と解体が主でした。その後は商業施設の制作部門で現場の管理・監督を務めました。当時は、紳士服・婦人服の専門店がこぞって出店していた時期で、店舗の仕事はいくらでもあったのです。しばらくすると、大型スーパーマーケットやGMSの時代が到来し、地域の再開発と連動した出店準備の業務に追われることになります。